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たとえ死の陰の何を歩むとも・・・ [キリスト教]

 今日のミサでの説教に引用された箇所です。今日の福音書朗読箇所の「羊飼い」の喩えももちろんですが。今日は所属教会ではなく、カテドラルでのミサに行ってきました。バチカンから枢機卿がみえ、バチカンの駐日大使、大阪の池永大司教、仙台教区の平賀司教・・・たくさんの神父様もいて、聖歌隊はかなり神経を使いました。通訳付きの枢機卿の説教はシンプルにわかりやすいもので、キリストが羊飼いであるということ、そして詩編23。この詩編の「たとえ死の陰の谷を歩むとも・・・」というのはよく聞く箇所ですが、震災により、家族、親族、友人をなくし、あるいは地震や津波から生き延びたとしても、家を財産を失った多くの人がいる仙台教区にとっては重みのある箇所でした。私個人としては8月に演奏会を控えてる合唱団で今、シューベルトの詩篇23を練習している。歌詞の内容をメンバーに説明してもどれだけ伝わってるのか、説明する私が空回りしてるのか毎度悩むところでもある。私個人にとっては葬儀ミサや通夜では必ず使う詩篇でもあり、自分自身にとっても大事にしてる箇所でもあるのだが。
 今日の枢機卿の説教でも、誰もがいずれは死を迎える、死の陰の谷を歩くときには家族からも友人からも離れて一人っきり、それでも一緒に歩いてくれるキリストがいるということがわかりやすく、でもストレートに語られた。通訳付きのものであってもはっきり伝わってきた。私自身は、説教でこれほど涙しながら聞く会衆を見るの初めてでした。今のこの状況がそうなのかも知れません。でも、聖書に書かれている言葉がこれほどストレートに響いた説教も初めてでした。 
 カテドラルの聖歌奉仕グループの指導をして、そろそろ4年になります。黒子ですので普段のミサには、後ろでそっと与るだけです。今日は神父様の許可がちゃんと出たということで、ミサの聖歌隊の指揮をしました。司祭、司教、大司教、枢機卿というカトリック教会がもつヒエラルキーをこれほどはっきりと目の当たりにしたのも初めてです。いろいろ考えました。でも、自分がカトリックであったことをよかったと実感したミサでもありました。
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